周知のように、我が国は木の国と言われている。それはたぶ
んに、檜、杉に代表される針葉樹を中心にした言葉だと解釈す
べきである。そういった意味で、日本のイメージを出すには、檜
か杉を使いこなすことが大切である。杉はあまりに柔らか過ぎて
どう考えても椅子などの家具材には不向きで、せめて檜のかた
さは欲しい。(中略)現代生活にマッチした檜を使用した家具
を考えることが、今も私のテーマである。下手すると、すぐに
和風の「やぼったさ」になってしまうし、北欧のデーニッシュス
タイルではおもしろくない。一昨年、一つの試みとして、提案
したのが写真の「ヒノキノイス」である。田舎の民家でもよし、
都会のマンションでもよし、あるいは別荘の庭でもよし、いろん
な所で使われ、どこにでもある様な、平凡でめだたないが存在
感があり、そこに置かれた椅子が丈夫で長持ちしそうな、一
見、不細工であるが、よく見ると美しく、スマートである様な、
そんな椅子を想定して考えたつもりである。
(家具・木工通信 no6 1989年より)
ハシゴイス
小イス
いつもの、買い付けの材木屋の片隅に、台湾檜の塊を見つけた
のが、「ザ・ベンチ」を作る最初のきっかけであった。もちろん
その時点で、この形のベンチを発想するなんていうことは、これ
っぽっちも考えていなかったのである。(中略)5年間、檜の塊
とにらめっこをしていたことになる。その塊は現在、正確な寸法
は記録していないが、たしかW210×T150×L3000、W240×T
150×L2000、の2本からなる檜であった。(中略)私は以前か
ら日本の美に興味をいだき、どうしたらヨーロッパ、アメリカ
ナイズされずに、その日本の美を現代生活の中に生き返らせるこ
とができるのか、疑問と悩みをかえて飛鳥・奈良・京都・出雲
を旅したり、その種の本を読みあさったりしたことがある。そ
ういったプロセスで私なりにわかったのは、日本人は、質素、倹
約を旨としてきた民族であり、シンプルな日本の美も木を大切
に使う心の現れで、木割の合理性もそこから生まれたのではな
いかと思ったのである。そこで、尺寸の30ミリを単位としたモデュール
を考え、できるだけそれに近い寸法を使うことにを一つの方法
としてきたが、このベンチの特徴もそこにあるとも言える。
厚さはすべて30ミリ、幅は60ミリ・150ミリの部材からできてい
るのである。
(家具・木工通信 no6 1989年より
ザグ
1963年〜1968年
工芸、木工を専攻、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・ク
ラフツ運動やピート・モンドリアンの造形理論に傾倒、家具デ
ザインの方向性が定まる。大学卒業後、後の九州州産業大学芸
術学部大山繁三郎教授の紹介により大川の家具メーカーに入
社、その頃まで伝わっていた職人の社会を垣間見る体験をする。
日本のイメージを出すためには日本独特の引く式の鉋の削り面
を活かすべきという考えで、人間工学を取り入れたヒノキの椅
子を第37回新制作展スペースデザイン部に初出品入選する。
その後、新制作展にしぼり、木工技術を活かした直線形態の椅
子の発表を続ける。
ベンチシリーズについて
1986年〜1990年
ヒノキノイスについて
1987年〜1995年
1969年〜1971年
床子
1972年頃
1972年〜1975年
ヒノキノイス
1978年、国際クラフト会議が京都で開催される。そのイベ
ントの一つ日本クラフトコンペ京都に合板による箱ものと椅子
を融合させ、和のイメージを取り入れた「重ね箱」を発表、入
賞する。その後シリーズ化する。
1982年、第2回国際デザインコンペテション大阪に日本の
床、畳を取り入れた作品「床子」を出品入選する。
家具の町大川時代の修練の延長で、鉋の原理を解明すべく、刃
砥ぎを日課としながら、教育方法の一助として木工ろくろの技
術も習得(1970年、大分県日田産業工芸試験場にて)その後
県展や工芸展に出品入選、入賞する。そのころ注文に応じて作
った家具は少ないが、両袖机、書棚はその一例。
当時、ハンス・ウェグナーやジョージ中島はあこがれの人であ
った。そのザ・チェアを実測する機会を得た。その後、日本の
尺寸のモジュールに基づき日本の建築構造を取り入れ、欅材を
使った椅子を発表、その後シオジや楢などで本格的に椅子のデ
ザインに取り組むようになる。
1985年〜1992年
1968年 卒業制作
1969年大川風浪宮大祭
1976年〜1982年